2015年08月28日

龍穏庵

先日、円覚寺塔頭の一つ「龍穏庵」を訪ねました。
「龍穏庵」は土曜坐禅会が行われる「居士林」裏の石段を上った高台の静かな場所にあります。

これまで何度か立ち寄っては、お茶を出していただき、ゆっくり休憩させてもらっています。
その日もやはり上がらせてもらって、お抹茶とお菓子を頂戴しました。
座敷からの眺め。
龍静庵.jpg
山野草が飾られた床の間
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いつも丁寧にお茶を運んで下さり、帰りもまた丁寧に見送って下さるのは、若い哉(さい)和尚様。親しみやすく優しい風貌の方で、さり気なく和ませて下さいます。

うちの実家は浄土真宗で、お寺には法事などで出かける機会はあったけれど、それ以外、お寺といえば、観光で拝観することしかありませんでした。
円覚寺の坐禅会に出かけるようになり、円覚寺とご縁ができてから、お寺(円覚寺)が気持ち的に近い場所になったな〜、とお茶をいただきながら改めて思いました。
こんな風に上がらせてもらってお茶をいただくって不思議な感じでした。

哉和尚の話によると、「龍穏庵」はご住職が再興されたそうです。最初ご住職が入られた時は、雨漏りはするし、床が抜け、笹が生えてくるひどい建物だったそうですが、ご住職が一人で補修を重ね、人が入れるようになったとのこと。宗派を問わず誰もが(ただし仏心のある人)が集える開かれたお寺にしたいと願っておられるそうです。
だから、いつ誰が訪ねてもあたたかくもてなして下さるのですね。
すっと入ってくる優しさ、落ち着き、ここの空気感っていいな〜。仏心に触れた感じかしら。
私はまだご住職にお会いしたことがなく、その日もあいにくお留守だったのですが、いずれお会いしたいです。

すっかりくつろいだひとときを過ごさせてもらって「龍穏庵」を後にしました。
posted by 幸 at 09:58 | Comment(0) | 円覚寺・座禅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年07月25日

今の自分を一生懸命生きる

アメリカンブルー
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先日買ってきた『いろはにほへと』第3集 「待機説法」より抜粋。

2014年6月、居士林でイエール大学の泊まりの座禅会が行われ、国際色豊かな15名の学生が参加しました。
横田南嶺老師との質疑応答の時間があり、学生さんから様々な質問がなされ、老師はそれに対して一つ一つ丁寧にお答えになっていました。

学生:禅のゴールとは何ですか?
老師:ゴールはそこにいるあなたです。色々骨折り、苦労をしてやっと、はじめからここにいたことに気がつきます。

学生:大自然と禅の関係は?
老師:禅は自然そのものであり、大自然は禅です。何か特別な能力を身につけることではありません。ただ今の自分を一生懸命生きるより道はありません。

学生:悟ったかどうかは、どうわかるのか?
老師:自分が一番よくわかります。たとえば、風邪をひいたかどうか当の本人が一番わかるようなものです。

学生:無とは何ですか?
老師:辞書を調べると、「無」には実は自然・草が生い茂るという意味もあります。花が咲き、鳥がさえずるなど、天地自然の様子のことです。禅の問題で、無を持ってこい!と言ったら、今日のような暑い日でしたら、冷たい飲み物を持っていくのが一つの答えです。

学生:日本国民にとってのお寺の役割とは何ですか?
老師:生産活動などの面から見たら、役に立っていませんが、その役に立っていないところに一般の人は安らぎを感じるのではないでしょうか。私たちお坊さんは何かを生産しようとしてあくせく働いているのではありません。そういう人が社会にいるということが安らぎになるのでしょう。

学生:良い悪いと判断する基準は何か?
老師:大自然に順応してゆくことは良いことであるし、逆に自然に逆らったり自然を破壊したりするものは悪いものです。


興味深いストレートな質問が続いているのも、老師がとても明確に答えておられるのも気持ちいい。
自然に逆らわず、ただ今の自分を一生懸命生きる。これに尽きますね。
posted by 幸 at 09:04 | Comment(0) | 円覚寺・座禅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年07月21日

この虚空をみよ

すっきり青空
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私たちを囲むこの虚空・空間は、朝になると日が昇り、明るくなります。しかし明るくなったからといって、この虚空・空間そのものが変わるわけではありません。同様に、日が沈み、暗くなっても、この虚空そのものが変わるわけでもない。ただそのように見えているだけなのです。

お互いのこころもそうです。悩んだり苦しんだりして、暗く落ち込んだりすると、自分のこころまで暗く落ち込んだように見えるかもしれませんが、こころそのものは明るくなったり、暗くなったりということはありません。

様々な縁にしたがって明るくなったり暗くなったり見えるだけであって、虚空・空間が何ら変わることがないように、私たちの本来のこころも同じです。

仏様というと何やら清らかで、きらきらと光り輝いて、何らとらわれがないような姿を私たちは思い描きます。逆に私たち衆生というと、けがれ、愚かで迷っている姿を描いてしまいます。姿・形にとらわれるというのは、そういうことをいうのです。

虚空・空間は、大きな音がしたからといってこわれることもないし、人が騒いだからといって乱れることもない。形あるものは、いつかはなくなるのが道理ですが、この虚空・空間は変わることがない。

ですから、「この虚空をみよ」です。この虚空こそお互いの本心なのです。
『いろはにほへと』第三集より
posted by 幸 at 16:39 | Comment(0) | 円覚寺・座禅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年07月19日

大自然の中に抱かれてゆったりくつろぐ姿

円覚寺・横田南嶺管長の法話をまとめた冊子「いろはにほへと」第三集が発売されたというので、昨日、座禅会に行った際、購入してきました。
いろはにほへと.jpg
表紙の写真は、円覚寺に住んで皆から親しまれている猫、かなちゃんの昼寝姿です。

管長のあいさつ文「ご縁のままに」の中から
・・・(前略)・・・
このたび、さらに『いろはにほへと』第三集を上梓していただくことになりました。もうそんなに新しい話も無く、同じような事の繰り返しではと申し訳なく思い、上梓をためらっていましたが、表紙になる予定の写真を見せられて、気が変わりました。縁側でごろんと横になっている猫の写真です。
「これはいい。この写真を見てもらうだけで第三集を出す意義が十分にある」と思いました。
縁側にごろんと横になってくつろいでいる猫、大自然の中に抱かれてゆったりくつろぐあの姿に、すべてが説き尽くされています。この表紙だけをご覧いただければ、私のつまらぬ話はもはや無用でありましょう。

・・・(後略)・・・

「大自然の中に抱かれてゆったりくつろぐあの姿」
それは「無功の功、無力の力」、仏心・仏性の真っただ中に身をさらけ出している姿そのものだ、ともお話の中で語っておられます。

そういえば我が家の犬も、同じような姿で寝ているのをよく見かけます。
日々忙しく動き回り、様々な情報に振り回され、心の中の葛藤に苛まれ・・・そんな時、犬や猫のゆったりくつろぐ姿を見かけると、ふっと力が抜けて心が和みます。
人もまた、大自然の中に生かされていて、心は本来大自然そのもの。
力が抜けて心が和むのは、たぶんその瞬間、本来の姿が思い出された、ということなのでしょう。
何にも意図してないのに、何もしてないのに、ただそこに居るだけで側にいる人の心が安らいでしまう。
すごいな〜と思います。

ところで、犬や猫の姿を見てそんな風に感じられる、ということもまた、すごいことだと思いました。
管長のお話を聞いて改めてそうかと思ったということもあります。でも、よ〜く振り返ってみると、ただ犬や猫と直接触れ合っただけでも心の変化は起きています。
見渡せば、そのように自分本来の姿が思い出されてしまう場面って本当はとても多い、というか全部それ、なのかもしれません。ただ自分の方が気づいてなかっただけ、なのですね。
posted by 幸 at 08:47 | Comment(0) | 円覚寺・座禅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年07月05日

シビアな視線

雨の円覚寺境内
雨の円覚寺境内.jpg

今朝の円覚寺・日曜座禅会はいつもの大方丈(大広間)ではなく、初めて居士林(土曜座禅会が行われている場所)で行われました。
横田管長の提唱はなくて、土曜座禅会と同じように25分の座禅を休憩をはさんで2回の後、読経、という流れでした。

日曜坐禅会は、座禅が初めての人でも誰でも参加できる会で、初めての人には最初に別室で座り方など説明があるようです。
大人数の場合に備えて、居士林の中には、いつも座る場所の後ろにも予備席の座布団が敷かれていましたが、悪天候のせいか、参加者は多くありませんでした。
参加者の方々は、後ろ側の予備席に座る方が多く、正規の前列席はずらり空席。(私はもちろん前列席に座っていた)
皆さん、前の席に座ったらいいのに、と思いながら、そのまま前半の座禅が始まりました。

雨音が響く中、静かな時間が過ぎました。

後半の座禅では、僧侶が警策という棒を持って歩き、必要な人は申告して叩いてもらうことになっています。
「後ろの席では警策は届かないので、やっぱり皆さん前の席に移ればいいのに」と思った私は、休憩の合図の後、思いきって僧侶のところへ行き、そのことを伝えてみました。

休憩が終わる頃、その僧侶は、警策の受け方の説明をしてくれて、「叩いてほしい人は前の席に移ってください」と仰いました。
1人だけ移動されたかな?あとの方々はそのままでした。
この言い方では、ちょっと動けないな、と思いました。席が空いているのだから、皆さんに前列に移動してください、と言えばいいのに、と思いました。
座禅会では警策を頼む人がとても多いのですが、今日は後ろ席が多かったので、警策の音は少しでした。いつもはうるさい程なので、それはそれでいいのだけど、正直言って「気が利かなさすぎ!」と感じました。
参加者の一人として、そんなことを感じてはいるものの、主催者側だったら私とて機転がきくかどうか自信はありません。
ただ、他人のことはするどく観察できるものだな〜というのが実感です。
posted by 幸 at 11:57 | Comment(0) | 円覚寺・座禅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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