2015年07月11日

変えるのでなく変わる

そら.jpg

空のように
空間のようにあること━━
それにこれは事実そうであるのだ
あなたが自分は染まっていると考えたとしても
それはただの考えにすぎない
あなたが自分は善人やあるいは悪人に
罪人やあるいは賢者になったと思ったとしても
それはただの考えにすぎない
なぜなら、あなたの内なる空は
決してどんなものにもなりはしないのだから
それは<在るということ(Being)>なのだ
それは決してどんなものにもなりはしない
何かになるということはすべて
みな空間の中に生じてくるある形や名前に
ある色や形に
自分を同一化してしまっているだけのことにすぎない
なるということすべてがだ

あなたは一個の<在るということ(Being)>なのだ!
あなたはすでにそれ在るのだ!
どんなものになる必要もない
                         『存在の詩』第2話より

先日、私よりずっと年上の人と話をしていた時、その人は「自分を変えたいと思う」と言いました。
若い人で、自分を変えたい人は多いだろうけれど、ある程度年老いると、そんな風に思わなくなるものです。
なので、自分を変えたいと言う彼女の真摯さに感心しました。

自分を変えよう、もっとよくなろう、成長しよう、と頑張るのは、向上心があってよいことと考えられています。
自分の努力で、よりよくなることは確かにあると思います。
けれど、こんなんじゃダメ!、〜しなければ!と焦って疲れてしまったら、ちょっと立ち止まってみてもいいと思う。

自分で自分を変えることって実はできないのです。
なぜなら、自分だと思っているものはただの考えにすぎないから。
これだけのことをして、こんなにすばらしく成長したぞ、と思っても、それもまた考えでしかありません。
こんな自分は愚かでダメだ、と思っても、それもまた考えでしかありません。
そうではなくて、考えを離れた時、自分はもうすでにそれで在る、のだから。
そう実感できた時、初めてその人は変わり始めるのです。
その人が自分で変えたのではなく、自然に変容が起こるのです。
posted by 幸 at 11:06 | Comment(2) | 存在の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年08月24日

あらゆる自己感覚は虚構だ

もしそこに何かがあるのならば
それは頼みにするものを必要とする
しかし何もない空であれば
どんな支えの必要もない
そして我々の実在が非実在であるというこのことは
あらゆる知者たちの最も深い認識だ
そもそもそれを実在と言うそのことからしておかしい
それは何かではないのだから
それは何かあるものなんかじゃないのだから
それは何でもないものとでも言うべきものだ
どんな境界も持たない広大な虚空
それはアナートマ(anatma)、無自己だ
それは「内なる自己」などというものでもない
あらゆる自己感覚はすべて虚構だ
「私はこれであり、私はあれである」というような
あらゆる自己同化はすべて虚構だ
究極なるものに行きつくとき
自分の最も深い核に行きあたるとき
突如としてあなたは
自分がこれでもなくあれでもないということを知る
あなたは一個の自我なんじゃない
あなたはひとつの巨大な空であるばかりなのだ
(「存在の詩」第一話より)

自分は空、無、何もないものである、ということが、若い頃の私には理解できていませんでした。
直感的に、そうかも、という認識がありましたが、そんな風に思うこと自体、私って何て虚無的なんだろう、とあまりよく思っていなかったのです。ただ、自分が考えている自分自身のありようが、本来の姿かどうか分からないし、できれば本来の姿で生きたい、と願ってきたのでした。

自分が存在するために頼みにするもの、支えにするもの、はいっぱいあります。
仕事、地位、お金、家族、愛する人、愛してくれる人、友人、人との交流、人格、生きがい、信条、使命・・・生きていく元気の素みたいなものはそれぞれ違うと思いますが、それら全てのものは変化し、絶対というものはありません。それでも私たちは、求めたりしがみついたり、を繰り返しています。

昨日、私はある霊能者のところへ行って、私自身と夫の今後の仕事についてのアドバイスを受けてきました。
とてもよく当る、と評判で、なかなか予約の取れない方だったので、かなり期待?!していました。実際、言われたことはそれなりに的を得てもいたし、成程と思う内容ではありました。

それはそれでよかった。霊能者の示唆を仰ぐことは、私がそこに何かを頼みにし必要としていた、ということでした。弱いかわいい私です。
それはそれでいい。でも、「あらゆる自己感覚はすべて虚構だ」という観点に立ったとき、それもまた虚構でしかない、と気づきました。

「私はこれであり、私はあれである」という自己同化が全て虚構であるとしたら、私は一個の自我ではなく、巨大な空であるばかりなら、それこそすばらしい解放、究極の自由ではないでしょうか。

そして、私はそちらを求め任せたいと思います。
posted by 幸 at 15:43 | Comment(0) | 存在の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年08月19日

「存在の詩」を再び読み始めた

私がまだ大学生だった頃に読んだ「存在の詩」。
和尚(バグワン シュリ ラジニーシ)がチベット仏教の詩集「マハムドラーの詩」を題材に語った講話です。
本当に久しぶりに読み返してみて、あらためてその素晴らしさに浸っています。

求めないこと
ただありのままの自分でいるのだ
ほかのどこへ行くこともない
なんぴとも神に至ったためしなどない
無理だ
あなたはその居処を知らないのだから
あなたはどこへ行くつもりか?
どこにあなたは<聖なるもの>を見出すつもりか?
地図などというものはない
そして道も━━
<彼>がどこにいるかを教えてくれる人もいない
駄目だ
誰も神に至ったためしなどない
それはいつも逆だ
神があなたのところへやって来る
いつであれ、あなたに用意のできたとき
必ず<彼>はあなたの扉を叩く
<彼>があなたを求めるのだ
あなたに用意のととのったときには必ず━━

そしてその用意とは<受容性>以外の何ものでもない
あなたが完全に受容的であるとき
そこに自我はない
あなたは誰もいないがらんどうの寺院となる
ティロパはこの詩の中で中空の竹になることを語っている
何もない━━
突然
あなたが中空の竹であるその瞬間
<聖なるもの>の唇があなたに当てられ
中空の竹は一本の竹笛となる
うたがはじまるのだ
(「存在の詩」第一話より)

最初に読んだ時、「これだ!」と衝撃を受けて夢中で読み進みました。
その時の若い私と、それから30年以上経った私とでは受け止める深さが違うかもしれない。
でも、存在のリアリティーは変わらず貫かれています。

もう一度じっくり味わって読もうと思っています。
posted by 幸 at 17:03 | Comment(0) | 存在の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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