2016年02月07日

自分の中の恐怖

北鎌倉駅近くの梅
北鎌倉駅近くの梅.jpg

先日、ある方から、私は自分の内側で色々なことを感じたり考えたりしているけれど、それをもっと外に表した方がいいと言われました。
確かに、私の傾向として(意外に思われるかもしれないけれど)あまり目立ちたくない、控えめでいたい、という気持ちが働いています。
何かの活動をする時も、リーダーになるのではなく、二番手になってリーダーを手伝う役柄を望むし、何かを学んでいる生徒の立場になることは多いけれど、教える立場になることは殆どありません。主役より脇役を選んでしまう。
グループの中にいたら、周りの雰囲気を感じながら和やかにしようとつとめつつも中心にはならないタイプです。

改めてそのことを考えてみると、どうも自分の中に「恐怖」があるようです。
その恐怖というのは、目立った存在になると、他の人からやっかみや嫉妬などを受けてしまうことへの恐怖だと思いつきました。

私は子供の頃、田舎の小さな小中学校に通っていましたが、両親が教師だったことで、特別視されていました。神経質で気弱な一人っ子だった私は、周りからの期待や好奇の眼差しを常に感じて窮屈な思いをしていました。「よい子」でいなくてはいけないというプレッシャーはいつもありました。実際、学校の勉強もできて「よい子」だったので、先生たちからも大事にされていたのですが、周囲の友達からは「ひいきされている」などとやっかみで嫌われたり意地悪されたりすることも多くありました。
周りの大人たちだけでなく、友達にも気を使いながら、びくびく生きていた記憶があります。

さらに、私が女性であることも関係しています。
私の父や家族は、女性は慎ましやかであるのがよい、強い女性は男性に嫌われる、という昔ながらの考え方で、その影響を受けているな〜とも感じます。
私が若い頃は、今と比べると、ずっと男性優位の社会でした。女性として社会で賢く生きていく術を私なりに探っていたのかもしれません。
男性に嫌われたくない(好かれたい)、という私自身の気持ちも大いに反映されています。

こんな風に自分の内面を探っていくと、他の人から嫉妬されたり誤解されたり嫌われたりする「恐怖」が、私の自然な動きにブレーキをかけていたのだと気づきました。
「恐怖」ゆえに必死で身の安全を守ろうとしていたのです。

自分の内面の「恐怖」に気がついて、何となく軽くなったような晴れたような気持になりました。
この「恐怖」はかなり根深いものだと思うので、そんなにすぐ晴れわたらないかもしれないけれど、折にふれて今のこの感覚を思い出しながら生きていきたいと思います。
posted by 幸 at 15:06 | Comment(2) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年12月29日

価値観の違う人との付き合い方

円覚寺・龍隠庵での餅つき風景
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昨日、娘との間のストレスについて書いた後、円覚寺の横田南嶺管長が、学生坐禅会で質問に答えておられるところを読んで、とても納得しました。
管長様は「思想や価値観など自分と合わないと思う人とどう向き合ったらよいでしょうか?」という質問に対して以下のように答えておられます。

自分と違うんだと思えばいい。それだけだ。自分の考えと同じような人間は一人としていない。みんな違うんだ。誰一人として同じ人間なんていない。皆、赤の他人の違う考えをしている。違う考えや価値観を同じにしようとするから争うんだ。「違うんだ!」と思えば(問題はそれで)終わりだ。いっしょにしようとするのが間違い。あらゆる間違いはそこだ。みな自分と同じようにしようとするから戦争が起こる。自分の考えと同じにさせようというのが争いの種となるんだ。みな違う!と思えば(問題は)終わる。それが東洋の和ということだ。和ということは、違うものと同じに(いっしょに)暮らすということだ。
(中略)
この世にある生き物、生きとし生けるもの何一つとして同じものはない。その違いを知るよりしょうがない。こういう違いがあるとわかって理解して生きていくよりしょうがないのだ。自分とどう違うか、違いを認識した上で折り合いをつけていきていくしかどうしようもない。
(中略)
あの人はこういう考えでやっているとよく理解したうえで自分はこういう風にやろうと思っていれば、うまく調和がとれる。あの人はああなんだから、ぶつからんようにやっていくしかしょうがない。(それが)ありのままにものを見ることだ。そのくらいのことがこの頃ようやくわかってきた。
国と国との争いも宗教の争いでもみな自分の考えが正しいと、それを人に強要することから喧嘩となる。(みんな)違うんだと思えばいい。
親と子だってそう。言うことを聞けと言ったって言うことを聞くわけがない。(親と子でも考え方、価値観が)違うんだから。この子にはこういう考えがあると思って理解して生きていくよりしょうがないんです。
 

考え方、価値観が違う人が他人の場合は、まだその違いを理解してつき合いやすいけれど、肉親となると、やはり同じであってほしいと思う気持ちが強くなると思いました。
夫に話すと、夫は、会社で考えの違う人と一緒に仕事するのは、肉親と暮らすより難しいと言います。
確かにそうかもしれません。
肉親であれ職場で一緒の人であれ、自分が日々関わる人との付き合いは、皆、自分とは違うんだと思って折り合いをつけていくしかないのでしょう。
「東洋の和」を目指して日々修行ですね。
posted by 幸 at 19:16 | Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年11月15日

2つのびっくり

色づき始めた紅葉(円覚寺境内)
もみじ.jpg

こまめにブログを書くのが億劫になって休んでいましたが、久々の更新です。

今朝は、雨の中、円覚寺の日曜坐禅会に向かいました。
遅刻しそうだったので、小走りで円覚寺境内に入ると、雨合羽を来て小道を掃除している人がいました。
早朝の円覚寺では、履き掃除をする人をよく見かけます。
たぶん業者の作業員だろうと思いながら、通り過ぎる時、小声で「おはようございます」と挨拶しました。
すると、「はい、おはようさん!」という明るく大きな声が返ってきました。
普通の作業員の挨拶ではない!
通り過ぎてから気づいたのですが、前管長の足立老師だったようです。
雨合羽姿は一見ふつうの作業員。でも、ひとあじ違うものがありました。
今朝、一つ目のびっくりです。

日曜坐禅会では、坐禅の後、横田南嶺老師の『伝心法要』提唱があります。
『伝心法要』というのは、臨済宗の開祖、臨済の師匠である黄檗禅師が地方官吏である裴休 (はいきゅう)に説いた教えです。
毎回、『伝心法要』の一節の解釈があり、難しい言葉なども丁寧に解説して下さるのですが、要点はいつも、外に求めることなく、ただ自分の中にある「心」(=仏心)を理解せよ、ということのように思われます。
まさにその通り、で、聞くたびに、そうだな〜と納得はします。ただ何度も通っているうちに、今日もまた同じようなことだろうな〜、まあこういうことが聞きたいから通ってるんだけど、等と心の中で勝手なことをつぶやいたりしていました。

ところが、今朝は、そんな私のマンネリな気持ちに喝を入れられました。

外側の物事は常に変化していて、晴れた日もあれば雨の日もある。私たちは普通、そんな移り変わりで一喜一憂している。が、その奥には不変のもの(=仏心)がある。常に変わるものではなく、変わらないものに意識を向けよう、仏心の視点を持とうというのが、私が漠然と意図していたことでした。
湖の表面は波立っていても、湖底はいつも静かである。その静かな世界を仏心だと思っていたところがあります。
ところが、今朝、管長様が仰ったのは、その波の部分もまた湖底と同じく水であって変わりはない、波もまた仏心なのだ、ということ。

そうか、全てのものが仏心だったのだ、と分かったと同時に、これまで自分の中で、「変化するもの」と「変化しないもの」を二分して考えていたことに気づきました。
二つ目のびっくりです。

昨日は冷たい雨に負けて土曜座禅会を欠席してしまったけれど、今朝は雨の中、日曜坐禅会に出かけてよかったです。
posted by 幸 at 17:00 | Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年09月07日

人に接する時の思い込み

ベランダのエキザカム(後ろに愛犬とボール)
はな.jpg

昨日会った坐禅歴10年のおじいさん。最初は怖い人、威張った人かと思っていたら、実際話してみると全く違っていて、気さくで愉快な人でした。
最初はへりくだっていたり、怖い人には近づきたくないな、と引いていたりしていた私だったので、昨日の出来事でほっとしたり喜んだり。
そして私が人に接する時の思い込みとか比較のクセを改めて思いました。

長年坐禅を続けている人は「それなりの境地に達している人」というのは勝手な想像でしかないんですけどね。そんな風に想像してしまってました。
私が関わっている世界なので、自分の勝手な想像をもとに、すぐ比較したり上下意識をつけてしまっていました。
年数などで威張るのもへりくだるのも、上から目線なのも下から目線なのも、不自然な態度ですよね。じっくり考えてみると、ほんとにそうだと可笑しくなりました。

長年坐禅を続けている人は人格者であるべき、という見方は私の色眼鏡による判断です。
長年坐禅を続けていることと、人格者であることとは、イコールではないのでした。
先生がいつも立派な人というわけではない、というのと同じです。
人格者だったら、威張ったり上から目線でものを言ったりしないはず、というのが私の言い分で、そういう態度に腹を立てたり憤慨したりしていたものですが、偏った見方から出た不必要な怒りでした。

そんな勝手な思い込みを取り払うと、人の見方も人との接し方も、もっとシンプルで楽なものになるな〜とつくづく思いました。
posted by 幸 at 13:11 | Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年06月14日

心のエネルギー

開花直前のスイレン
開花前.jpg

昨日、ある人と話をしていて感じたこと。

その人は自分の経験や思いをいっぱい語ってくれて、私はとても興味深く耳傾けていました。
私と共通点が幾つも見つかったり、似た感覚を持っていたりするので、会話はスムーズで次々話が続きました。

会話中、私が感じていたのは、その人の発する言葉よりも、彼女から発せられるエネルギーみたいなものでした。
傾聴では、言葉よりも、その人が今どんな気持ちなのか、に注意を向けようと習ったことを思い出しました。
そんな知識より先に(それともそれが経験上、自分の身についてしまっていたのか?)自然にそのように感応していました。
傾聴ボランティアで相対している時にも時々感じるのですが、相手が同じような調子で話していたとしても、何か微妙に伝わってくる時があります。

内に秘めた心のエネルギーというのは不思議です。
それは、外に出たがっているように思えます。
外に現れ出ることで消えていくものだとも思います。

そしてまた不思議なことに、そのように表われては消えていく流れが、折にふれて起こってくる。
折にふれて、とはご縁でしょう。自然のはからいなのかもしれません。

話し終えた後、彼女は自分の中で気づくものがあったと言ってくれました。
私も嬉しくなりました。

開花したスイレン
開花後.jpg
posted by 幸 at 09:17 | Comment(2) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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