2016年03月25日

失うことは解放されること

今朝、台峯緑地で見つけた山桜
山桜.jpg

今朝のNHK朝ドラ「あさが来た」の中で、成澤先生が死を意識した新次郎に「慰めになるかどうかは分かりませんが」と前置きして言った台詞が印象に残りました。

生と死というのは違いは無いのです
生があるから死があり 死があるから生がある
この二つは常に一つのリズムとして我々の日常を流れています
そして この身体はただの衣服であり
本当の身体はもっと 奥にある
そしてそれは 永久に滅びません

母が亡くなり母の葬儀があって、死を間近に見てきたばかりなので、タイムリーにフィットする内容でした。

人の人生というのは、ひとつの大きな脚本のようなものだと思います。
一人の人が死ぬことで、死んだ人はその脚本から自由になる。
意識がなくなって、身体がなくなって、「存在」に還っていくのでしょう。
亡くなった人と関わりのあった人はそれぞれ、自分の脚本の中からその人のパートがなくなる。
その時、いなくなったその人の存在が自分の脚本の中でどんな意味を持っていたのかを知ることになる。
大きな存在であればあるほど、その喪失感は大きいけれど、反面、その部分から自由になるとも言えると思います。

失うことは解放され自由になることでもある。
私の実感です。

思えば、これまでの人生でも、その時自分にとって大事だった人やもの、環境などを失う経験があって、その時は失いたくないと抗ったり、悲しみにくれたりしましたが、よく考えてみると、失ったことでぽっかり空いた空間にどこかでほっとするような自由を得たような感覚もまたあった気がします。
私たちは、ともすれば失うことを恐れ、抗い、悲しんだりさびしがったりしてしまいがちですが、そんな時こそ、もっと奥にある感覚に意識を向けたいと思います。



posted by 幸 at 11:29 | Comment(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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