2013年09月30日

晴れたり曇ったり

昨日、夫といつものようにアイコンタクトをしている時でした。
丹田辺りに意識を向けていると、周りの全てが「存る」(存在、真我、意識…)だということに気づきました。色んなことがドバッと押し寄せてきて、な〜んだ、そうなんだ、みんなそれそのものなんだ!と分かって嬉しくて有難くて涙が出てきました。
これまで「在る」を意識することをあれこれ難しく考えていたのが可笑しくなりました。

晴れ渡った清々しさがありました。

ところが、その後、心に靄がかかりました。
これってどういうことなの?という疑問や、私の思い込み?という疑念が出てきました。
この状態を説明しようと試みたからなのか、この状態をそのままとどめたいという気持ちが働いたからなのか、とにかくそういうゴチャゴチャマインドが起きて、すっかり曇り空になってしまいました。

心はいつも揺れ動いています。気分というのはほんとにあっけないものです。

でも、揺れ動く気分や心の状態に関わらず、私たちは皆、そのまま在るもの、あってないもの、それそのもの、の中にあるのだ、という理解は確実になされたようです。
雲に覆われても、その雲の奥には晴れ渡った青空があることは確かなのです。
posted by 幸 at 13:37 | Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年09月29日

土曜座禅会・経験者の部

円覚寺、居士林の土曜座禅会に行ってきました。
この前、初心者の部で、基本的な坐禅の作法を教えてもらったので、二回目からは経験者の部に参加となるのですが、経験者の部に初参加の私はちょっぴりドキドキ。
初心者の部に参加した時は、人数が多くて正式に坐禅をする場所に座れず、控えの間のようなところにぎゅうぎゅう詰めに座っていたせいか、周りの人に気が散るし、脚は痛いし、正直言ってあまりよい状態で座ることができませんでした。
昨日は、それでもただ座らせてもらおう、とそれ程期待もせず出かけたのでした。

ところが、経験者の部の参加者は、初心者の部の参加者とは雰囲気が違いました。
初心者の部は、軽い興味の参加者が大勢ですが、経験者の部は、真剣に坐禅に向かう心構えの人だからでしょう。
居士林の中に一礼をして入り、一礼をして座る、準備の時間からすでに静寂が保たれていて、自然に坐禅に入ることができました。座り方がうまくいったのか、脚も全然痛くありませんでした。
環境のせいなのでしょうか、ただ座っていることが本当に心地よく感じられて、あっという間に時間が過ぎました。

1時間の坐禅の後、横田南嶺管長様の臨済録提唱がありました。
臨済が語った言葉を管長様が解説して下さるのですが、その内容は、無空庵で言われていることと全く同じで、私がいつも意識を向けようとしている「在る」(存在=仏心)のことが語られていて、自然にすっと入ってきました。
扇子でポンと机をたたいて、この音を分別(思考)なくただ聴いているもの、それが存在、仏心である、そして全てはその中に在るのだ、というようなことです。
臨済について全然知らなかったけど、こんなことをずいぶん昔に仰ってたのか、とびっくりしたり興奮したり。

提唱が終わると、すでに日は傾きかけていました。爽やかな風がふいていました。
座禅の後、外に出て分別なく眺めると、全てが光り輝いて見える、と管長様が仰っていたことが実感できました。見慣れた景色なのにただただきれいでした。
自分でも驚くほど軽くなった心で足取りも軽く帰路につきました。
コスモス.jpg

posted by 幸 at 15:34 | Comment(0) | 円覚寺・座禅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年09月28日

和尚タロットをひいてみた

心の中には様々な思考や感情が溢れていて、混乱した状態でした。自暴自棄になりそうなくらい、混乱していました。
秋晴れの空を見上げて心を落ち着けながら和尚禅タロットをひきました。

今日のメッセージを一枚。
Turning In (内側へ向かう)でした。
たろっと.jpg
解説の和訳は以下の通りです。

このイメージの女性は、かすかな笑みを浮かべています。
じつは、彼女は心(マインド)のたわむれをただ見守っているのです。
それらを判断せずに、止めようとせずに、同化せずに、まるで通りの往来か
池の水面のさざ波でもあるかのように、ただ見守っています。
心のたわむれはあなたの気を引き、ゲームへ誘い込もうとして、
跳んだりはねたり、あちこちに捻れたりして、ちょっと可笑(おか)しくもあります。
心(マインド)から離れているコツをつかむのは、最大の祝福のひとつです。
瞑想とは、ほんとうはそういうことなのです。
真言(マントラ)を唱えたり、誓いの言葉を繰り返したりするのではなく、
まるで心は誰かほかの人のものであるかのように、ただそれを見守ることです。
今、あなたには、この距離をとって、
ドラマに巻き込まれることなくショーを見守る準備が整っています。
そうできるときはいつでも、「内側に向かう」というこの簡素な自由をじっくりと味わえば、
あなたの内側で瞑想のコツが育ち、深まっていきます。

和尚のメッセージはこうです。

あなたが欲しがっているのは、今度は無欲かもしれない。
内に入るために努力しているのであれば、あなたは依然として外に向かっている。
努力はすべて、あなたを外に、 外側に連れ出すことしかできない。
旅はすべて外に向かう旅だ。内に向かう旅はない。どうやって内側に向かって旅ができるかね?
あなたはすでにそこにいるのだ。行こうとすることなど問題外だ。
行こうとすることが止まったら、旅をすることも消える。
欲しがることであなたの心がもはや曇っていないとき、あなたは内にある。
「内側に向かう」と言われているのはこのことだ。
だが、それは向きを変えることではまったくない。
たんに外に出て行かないことだ。
copyright コピーライトマーク 2009 Osho International Foundation

マインドの戯れを見守る女性のイメージ。
心から離れるコツをつかむこと。今の私が最も必要としていることではありませんか。
今日午後から、円覚寺の座禅会に出よう。
思い立って円覚寺に向かいました。
円覚寺土曜座禅会・経験者の部。
この前は初心者の部に出て、坐禅の基本の説明を受けていたので、二回目以降の「経験者の部」に参禅することにしました。

思った以上に素晴らしい体験になりましたが、それについてはまた明日書きます。
posted by 幸 at 18:59 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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